2006年6月6日。 その日、世界中の暇人どもが集団ヒステリーを起こしていたのを覚えているか。 カレンダーに並ぶ「06・06・06」という数字。 たかが100年に一度の数列に過ぎない。 だが、世の中にはこの数字を見て不吉だ、世界の終わりだ、と騒ぎ立てる単純な回路の持ち主がごまんといる。 彼らは普段、占いや血液型診断で人生を決めているような連中だ。 ハリウッドの連中は、そんな大衆の単純さを嘲笑うかのように、賞味期限切れの果実を市場に投げ込んだ。 ホラー映画の聖典、1976年版『オーメン』のリメイクだ。
結果はどうだ。 批評家たちは一斉に酷評した。 魂がない、劣化コピーだ、恐怖が安っぽい。 Rotten Tomatoesのスコアは26%。 建築で言えば、基礎工事の手抜きが見つかって傾いた欠陥住宅だ。 住めたもんじゃない。 だが、ここからが本当のホラーだ。 この欠陥住宅は、スタジオの金庫が破裂するほどの巨万の富を生み出した。 製作費2500万ドルに対し、世界興収は約1億2000万ドル。 なぜ中身スカスカの映画がこれほど稼げたのか。 そしてなぜ、オリジナルにあった本物の恐怖は消え失せたのか。 興行データ、映像分析、時代背景、そして現場のオカルト秘話(笑)を交え、この奇怪な成功例を5000文字を超える密度で解剖してやる。 要するに、これは映画じゃない。高度な集金システムのエラーだ。
マーケティングの勝利。666という最強の客寄せパンダ
この映画の成功要因はたった一つ。 公開日を商品化したことだ。 中身なんてどうでもいい。 2006年6月6日に公開するというゴールだけが決まっていて、突貫工事で建てられたプレハブ小屋みたいなもんだ。 だが、その客引きの手口だけは、悪魔的に冴えていた。
火曜日公開という暴挙と集団心理
通常、映画は金曜日に公開する。 週末の動員を見込んでランキングを作るのが常套手段だ。 だが20世紀フォックスは火曜日公開を強行した。 ヨハネの黙示録第13章18節にある獣の数字666。 この数字が並ぶ日は100年に一度しかない。 スタジオはこのチャンスに飛びついた。 6月6日にオーメンを見るという行為自体をイベントにしたんだ。 映画ファンも一般人も、こぞって劇場へ足を運んだ。 一種の肝試しだ。 「みんなが見てるから自分も見る」という、人間が持つ最も愚かな同調圧力を利用した。 結果、平日にもかかわらず記録的な数字を叩き出した。 初日の興行収入は1263万3666ドル。 末尾まで666に揃ったこの数字。 偶然か演出かは知らんが、大衆を扇動するには十分なネタだ。 数字遊びに興じる暇があるなら、もっとマシな時間の使い方はなかったのかと言いたいがな。
宗教すら利用する炎上商法
この公開日は、当然ながら宗教団体を刺激した。 バチカンや保守的なキリスト教団体が懸念を表明したという報道もあった。 だが、それすらもスタジオにとっては無料の宣伝だ。 見るな!と言われれば見たくなるのが大衆心理だ。 カリギュラ効果というやつだな。 スタジオは、信仰心すらもマーケティングの燃料に変えた。 神も悪魔も、彼らにとってはただの客引きに過ぎないということだ。
売り逃げという詐欺的ビジネスモデル
この日付商法には致命的な欠点がある。 日が過ぎれば魔法が解けることだ。 実際、客足はすぐに途絶えた。 2週目には閑古鳥が鳴いていた。前週比で60%以上のダウンだ。 だが、スタジオにとっては想定内だ。 話題性がピークに達するその日に売り抜ける。 悪評が広まる前に現金を回収する。 冷徹で計算高い。 まるで結婚詐欺師の手口だな。 相手が夢を見ているうちに契約書にハンコを押させ、式を挙げさせ、釣った魚に餌はやらない。 この映画の興行モデルは、まさにそれだ。 客はまんまと騙され、スタジオは高笑い。 システムとしては優秀だが、品性は下劣極まりない。
「00年代リメイクブーム」という悪夢の時代背景
この映画が作られた2006年という時代も重要だ。 当時は安易なホラーリメイクが大量生産された暗黒期だった。
テキサス・チェーンソーの成功体験
2003年、『テキサス・チェーンソー』(悪魔のいけにえのリメイク)がヒットした。 これに味を占めたハリウッドは、過去の名作ホラーを片っ端からリメイクし始めた。 『悪魔の棲む家』(2005)、『蝋人形の館』(2005)、『ヒルズ・ハブ・アイズ』(2006)。 どれもオリジナルへのリスペクトよりも、「残酷描写」と「若手スターの起用」を優先した。 『オーメン』もこの流れの中にあった。 「名作のタイトルさえあれば、中身がどうあれ客は来る」 そんな舐め腐った態度が透けて見える。 リメイクとは本来、現代的な解釈を加えて再構築するものだ。 だが、この時期のリメイクは、ただの「劣化コピー」か「残酷ショー」に成り下がっていた。
継承された呪い? 現場の管理不足を怪奇現象にするな
オーメンといえば「呪い」だ。 オリジナルの製作時には死人が出るほどの事故が多発した。 あれは確率論では説明しにくい不運の連鎖だったかもしれないし、単なる当時の安全基準が低かっただけかもしれない。 だが2006年版はどうだ。 リメイク版の現場でも不可解な現象が起きたというが、俺に言わせれば眉唾だ。
フィルム消失とこじつけの数字
ジョン・ムーア監督がインタビューで明かした話がある。 撮影済みのフィルム約13500フィートが現像機の中でズタズタになったそうだ。 現像所のミスだろう。あるいは機材の老朽化だ。 だが、ここでも数字遊びが出てくる。 「13500」という数字に不吉な意味を見出そうとする奴らがいた。 人間というのは、意味のない事象に無理やり理由をつけたがる生き物だ。 失敗をオカルトのせいにするのは、無能な現場監督の言い訳に過ぎない。 「悪魔の仕業です」と言えば、始末書を書かなくて済むからな。
機材爆発と小さな怪我
照明機材が爆発したり、スタントマンが怪我をしたりした。 現場ではよくあることだ。 電圧のチェックミスか、機材の扱いが悪かっただけだろう。 1976年版のような死者は出ていない。 唯一、出演者のピート・ポスルスウェイトの兄弟が亡くなるという不幸があったようだが、それを映画の呪いと結びつけるのは故人への冒涜だ。 要するに、悪魔にすら相手にされなかったということだ。 あるいは、そこまで深刻な作品ではなかったという皮肉かもしれないな。 悪魔も忙しいんだ。中身のないコピー商品の現場にいちいち顔を出して、照明を割ってる暇はないだろうよ。
新旧徹底比較。職人芸と工業製品の違い
興行的な成功とは裏腹に、作品の質はゴミレベルだ。 多くのレビューが指摘したのは、オリジナルへの過剰な忠実さだ。 脚本をそのまま流用した。 名建築の図面をコピーして、安い建材で建て直せば同じものができると思ったら大間違いだ。 そこには「魂」が宿らない。 監督のジョン・ムーアはCM出身だ。 映像をスタイリッシュに見せることには長けているが、物語を語る力はない。
恐怖の質の変化。現実への逃げ
オリジナル版の恐怖は、平和な家庭に忍び寄る違和感だった。 幸せそうな食卓に、一滴の毒が混じるような恐怖だ。 だが2006年版はスケールを大きくしようとして失敗した。 冒頭でバチカンの会議シーンを追加し、テロや津波の映像を使って、ダミアンの誕生を正当化しようとした。 安直だ。 現実の悲劇をホラーのスパイスに使うなど、三流のやることだ。 世界が混乱しているから悪魔が生まれたという説明は、逆に悪魔の神秘性を削ぐ。 理由のわからない不安こそが恐怖の本質なのだが、それを理解していない。 説明書がないと怖がれない現代人に合わせたのかもしれんが、野暮もいいところだ。
MTV世代に向けた薄っぺらな映像
映像の質感も違う。 オリジナルは重厚なフィルムの質感があった。自然光と影の使い方が絶妙だった。 リメイクはミュージックビデオのようだ。 当時流行していたティール・アンド・オレンジ(青とオレンジ)の色彩補正がキツすぎる。 画面全体にフィルターをかけたような、彩度を落とした冷たい青色。 ダミアンの服の赤色だけを強調する作為的な色彩。 小刻みに揺れるカメラワークや、無駄に早いカット割り。 雰囲気だけで中身がない。 流行りのデザイナーズマンションと同じだ。 見た目は洒落ているが、壁が薄くて隣の音が丸聞こえ。住めば3日で飽きる。 名画のような風格のあったオリジナル版と比較すると、リメイク版はただの加工された映像データにしか見えない。
静寂を捨てた騒々しい演出:乳母の死
乳母の自殺シーン。 オリジナルは静寂の中で行われたからこそ怖かった。 鳥のさえずり、子供たちの笑い声。その平和な日常が、たった一つの行動で凍りつく。 リメイクは最初から不穏な天気で、音楽も大袈裟だ。 乳母の表情も最初から狂っている。 これから飛び降りますよ、怖いですよ、とスピーカーで放送しているようなものだ。 驚きがない。 間(ま)という概念が欠落している。
ピタゴラスイッチ化した死:キースの首切断
キースの首切断シーンもそうだ。 オリジナルはシンプルだった。トラックから滑り落ちたガラス板が首を飛ばす。 物理的な重さと鋭さが伝わってきた。 リメイクは、ハンマーが落ちて看板を叩き、ワイヤーが切れて……という複雑な手順だ。 まるで『ファイナル・デスティネーション』だ。 CGで派手にはなったが、物理的な痛みが伝わってこない。 死をゲームのイベントのように扱っている。 リアリティがないんだよ。 これだから最近の映画は軽いんだ。
音楽の敗北。静寂の美学を知らない
音楽も酷い。 オリジナルのジェリー・ゴールドスミスによる『Ave Satani』は傑作だった。 アカデミー賞を獲っただけのことはある。 あの低音の合唱は、聴くだけで不安になる。 リメイクの音楽はマルコ・ベルトラミが担当したが、ただ音が大きいだけだ。 常に音が鳴り響いていて、耳が疲れる。 ここが驚くところだ!と音で指示されているようで不快だ。 沈黙の使い方がわかっていない。 一人でステーキを食ってる時に、隣で大声で喋り続けられるような不快感だ。
キャスティングの皮肉と失敗。唯一の救い
唯一評価できるのはキャスティングの皮肉だ。 これだけは、キャスティング担当のブラックジョークが効いている。
ミア・ファローというジョーク
悪魔の乳母役にミア・ファローを起用した。 彼女はかつて『ローズマリーの赤ちゃん』(1968)で、悪魔の子を産まされる被害者を演じた女優だ。 その彼女が今度は、悪魔の子を守る加害者を演じる。 被害者ヅラした女が一番怖いという世の真理を突いているな。 彼女の演技も悪くない。 甘い笑顔の裏にある狂気。 オリジナル版の乳母が「軍人のような厳しさ」だったのに対し、ミア・ファローは「過保護な母親の狂気」を演じた。 これだけは見応えがあった。 親切そうな隣人が実はゴミ屋敷の住人だった時のような、得体の知れない恐怖だ。
父性の欠如。若造に外交官は無理だ
父親役のリーヴ・シュレイバーは若すぎた。 当時38歳。 オリジナルのグレゴリー・ペックは当時60歳。 ペックが持っていた「政界の重鎮としての威厳」と「父としての深み」がない。 シュレイバーは良い役者だが、この役には軽すぎる。 苦悩しても、ただの若い男が仕事と育児にテンパっているようにしか見えない。 これは明らかにミスキャストだ。 構造計算を間違えている。 柱が細すぎて、屋根の重さを支えきれていないんだよ。見ていて痛々しい。
無表情すぎるダミアン。ただの不機嫌なガキ
ダミアン役の子役も問題だ。 監督が演技をするな、瞬きをするな、と指導したらしいが、極端すぎる。 ただ突っ立っているだけで、子供らしい無邪気さがない。 最初から怪しすぎて、なぜ親が気づかないのか不思議になるレベルだ。 僕、悪魔です、という看板をぶら下げているようなもんだ。 オリジナル版のダミアンは、時折見せる子供らしい笑顔があったからこそ、ふとした瞬間の冷酷さが怖かった。 ギャップ萌えならぬ、ギャップ恐怖だ。 リメイク版にはそれがない。ただの不気味なガキだ。 リアリティの欠如は、こういう細かい綻びから崩壊していくんだ。
ビジネスとしての正解。金は嘘をつかない
最後に数字の話に戻ろう。 感情論抜きにすれば、このプロジェクトは大成功だ。 悔しいが認めざるを得ない。
高収益を生むシステム
製作費2500万ドル。 世界興収約1億2000万ドル。 投資対効果は4.8倍。 素晴らしい数字だ。 VFXを抑えてコストを管理し、宣伝で客を呼ぶ。 映画ビジネスとしては教科書通りの成功例だ。 芸術性などという曖昧なものを捨てて、利益を追求した結果だ。 結婚相談所が、成婚率よりも入会金と月会費で稼ぐのと同じシステムだな。 客の幸せなんてどうでもいい、金さえ払えば。
海外市場と二次利用
特に海外で稼いだ。 興行収入の半分以上は北米以外だ。 カトリック圏や日本でのオカルトブームを利用した。 DVDも売れただろう。当時はまだ配信ではなく円盤を買う時代だった。 知名度のあるタイトルのリメイクは、商品として強い。 中身が空っぽでも、パッケージが立派なら売れるという証明だ。 あんたが嫌うマッチングアプリもそうだろ? プロフィール写真は加工済み、年収はサバ読み。 それでも会えるかもしれないという幻想に金を払う男がいる。 この映画の観客も同じだ。 幻想に金を払ったんだよ。
結論。数字だけが残った空虚な箱
この映画は失敗作か。 映画としてはイエスだ。 オリジナルの神学的な恐怖は消え、安っぽい脅かしと騒音に置き換わった。 魂を売って見た目を整えた、まさに現代社会の縮図のような映画だ。 便利にはなったが、情緒が死んだ現代そのものだ。
だがビジネスとしては天才的だ。 666という日付を利用して、最小のリスクで最大のリターンを得た。 その手腕だけは認めてやる。 金の亡者としては一流だ。
見る価値があるかと聞かれれば、オリジナルを見ろと言う。 だが2006年版にも学ぶべき点はある。 優れた原作へのリスペクトが過ぎると、個性が死ぬという教訓だ。 そして、大衆がいかに簡単に「雰囲気」や「数字」に流されるかという事実を確認するためなら、見てみるのもいいだろう。 人間観察の教材としては悪くない。
悪魔は細部に宿るというが、この映画の場合、悪魔は興行収入という数字の中にしかいなかったということだ。 要するに、映画も結婚も、中身よりタイミングと演出で決まるというのが現実らしいな。 やれやれ。 世の中、本当にバカバカしいことばかりだ。 金魚に餌でもやって寝るか。あんたも無駄な課金はやめて、いい肉でも買って焼け。その方が有意義だぞ。