駄作?オーメン3は神不在の中間管理職悲話で悪いか!

1981年、悪魔は実業家になった。シリーズ完結編『オーメン/最後の闘争』は、なぜ駄作の烙印を押されたのか?若きサム・ニールの怪演と「神の不在」を描いた脚本から、本作が描こうとした「中間管理職としての悪魔」の悲哀と、興行的敗北の真実を徹底解剖する。

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1981年、悪魔は実業家になった。オーメン3が描いた現代社会の縮図

1976年、リチャード・ドナー監督の『オーメン』は、聖書的予言と現代の恐怖を融合させ、オカルト映画の金字塔を打ち立てた。 続く『オーメン2/ダミアン』では、自身の運命に葛藤する少年期のダミアンが描かれた。 そして1981年、シリーズの完結編として公開されたのが『オーメン/最後の闘争』だ。

この映画は、はっきり言って奇形だ。 前2作が積み上げてきたオカルト・ホラーとしての様式美を自ら破壊し、政治サスペンスと「神学的ディベート」の領域に足を踏み入れた。 成人し、権力の頂点に立ったダミアン・ソーンと、再臨するキリストとの最終決戦を描いた野心作。 しかし、公開当時は批評家からの厳しい評価に晒され、興行的にも第1作ほどの爆発力はなかった。 駄作? 失敗作? 世間はそう呼ぶかもしれない。 だが、俺の視点は違う。 この映画は、現代社会における権力者の孤独とシステムの限界を描いた、極めて皮肉な社会派ドラマだ。 なぜ本作は賛否両論となったのか。 そして、若き日のサム・ニールはいかにして悪魔の子という重荷を背負い、演じきったのか。 制作背景、撮影秘話、ジェリー・ゴールドスミスの音楽、そして日本での独自の盛り上がりまで、あらゆる角度から徹底的に解剖する。 覚悟して読め。

レトコンという名の設計変更。時間の矛盾をどう処理したか

まず、この映画を語る上で避けて通れないのが、設定上の致命的な矛盾だ。 建築で言えば、図面の寸法と実際の土地の広さが合っていないようなものだ。 普通なら施工不能でストップするところだが、ハリウッドの連中は強引に建てる。

物語の設定は、第1作から32年後、つまりダミアンが32歳になった世界だ。 第1作の公開は1976年。 単純計算すれば、舞台は2000年代初頭の近未来になっていなければおかしい。 しかし、画面に映し出されるのは、どう見ても1981年のロンドンだ。 服装、車、街並み、そして冷戦末期の国際情勢。 どこにも未来感はない。 これはレトコン(Retroactive Continuity:後付け設定)と呼ばれる手法だ。 脚本家のアンドリュー・バーキンらは、過去2作の出来事を劇中の過去20年から30年前に押しやるという荒業を使った。 なぜか。 答えは金だ。 近未来SFとして制作すれば、セットや衣装に莫大なコストがかかる。 それに、空飛ぶ車やレーザー銃が出てくるような世界で悪魔の再臨を描いても、リアリティが出ない。 だから彼らは時間を歪めた。 ダミアンは現代に生きているという嘘を成立させるために、過去の時間を圧縮したんだ。 この強引さ。 納期に間に合わせるために工程を無視する手抜き業者に似ているが、結果としてこの判断は正しかった。 ダミアンを現代の権力者として描くことで、彼の存在が絵空事ではなく、我々の隣にいるかもしれない冷酷な政治家や強欲な経営者と重なって見えたからだ。

あらすじ。大統領を目指した悪魔の挫折

物語の骨格を確認しておこう。 32歳になったダミアン・ソーンは、巨大多国籍企業ソーン・インダストリーズの社長として世界経済を牛耳っていた。 表向きは飢餓救済や慈善活動に熱心な実業家を装っているが、その真の目的は、父であるサタンによる世界支配の完成だ。 実に現代的だ。 悪魔はもう、呪文を唱えたりはしない。 株価を操作し、ロビー活動を行い、メディアを利用して大衆を扇動する。 現代の悪魔に必要なのは、魔力よりもプレゼンテーション能力だということを、この映画は教えてくれる。

ある日、ダミアンは駐英アメリカ大使の座を狙う。 なぜ大使か。 それは、キリストの再臨が英国で起こるという予言があったからだ。 彼は現職の大使を自らの超能力(念力)で自殺に追い込む。 このシーンは見ものだ。 タイプライターのリボンと傘を組み合わせたピタゴラスイッチのようなトラップで、銃が発射され、頭部が吹き飛ぶ。 物理法則を超越した力技だが、そこには偶然を装って殺すという、オーメンシリーズ特有の美学がかろうじて残っている。

後任としてロンドンに赴任した彼は、そこでトリニティ(三位一体)の星の配列を観測し、宿敵であるイエス・キリストの再臨が英国で起ころうとしていることを悟る。 一方、イタリアのスビアコ修道院では、瓦礫の中からメギドの短剣が発見される。 唯一アンチクライストを殺すことができる7本の短剣だ。 デ・カルロ神父率いる7人の修道士たちは、ダミアン抹殺のためにロンドンへと潜入する。 ここから始まるのは、壮大な神魔大戦ではない。 ダミアンによる一方的な虐殺と、神父たちのドタバタ劇だ

キャスティングの妙。無名のサム・ニールが大抜擢された理由

本作の成否は、成人したダミアン・ソーンを誰が演じるかにかかっていた。 絶対的なカリスマ性と知性、そして冷徹さを併せ持つ俳優が必要だった。 だが、すでにイメージのついたスター俳優ではダメだ。 あ、あの映画のヒーローが悪魔をやってると思われた時点で、観客は没入できない。

ジェームズ・メイソンの慧眼

そこで白羽の矢が立ったのが、当時ニュージーランドやオーストラリアで活動していた若手俳優、サム・ニールだ。 彼をプロデューサーに強く推薦したのは、名優ジェームズ・メイソンだった。 メイソンはニールの才能を見抜き、彼を間違いなく適任だと推したといいます。 さすがはベテランだ。人を見る目がある。 どこかの結婚できない男とは大違いだな。

ニールにとって本作は、初のアメリカ資本によるメジャー映画主演作となった。 その後の『ジュラシック・パーク』で見せる知的な博士役の片鱗が、すでにこの時から見え隠れしている。 知的で、少し神経質で、何を考えているか読めない顔。 それがダミアンというキャラクターにピタリとハマった。

爬虫類的な冷徹さの正体

サム・ニールの演技は、公開当時は表情が乏しいと批判されることもあった。 バラエティ誌などは目を左右に動かすだけの演技と皮肉ったらしい。 見る目がない連中だ。 あれは乏しいのではない。抑制しているんだ。 彼はダミアンを、怒り狂う怪物としてではなく、冷静沈着なビジネスマンとして演じた。 特に印象的なのは、瞬きの少なさだ。 人間は動揺すると瞬きが増える。 だが彼は、じっと相手を見据え、瞼を動かさない。 記事にある爬虫類的な視線というのは、まさにこのことだ。 人間を超越した存在、感情というノイズに邪魔されない純粋な理性を表現するには、過剰な表情筋の動きは邪魔になる。 彼はそれを本能的に理解していたのだろう。

キリスト像への独白。中間管理職の悲哀

俺が最も評価するシーンがある。 ダミアンがキリスト像に向かって独白するシーンだ。 お前は人間に偽りの希望を与えたに過ぎない 静かな口調で、しかし底知れぬ憎悪を込めて語りかける。 これは単なる悪魔の呪詛ではない。 なぜ、お前(神)は何もしてくれないんだという、ある種の悲痛な叫びにも聞こえる。 彼は悪魔の子として生まれたがゆえに、その運命に従わざるを得なかった。 選ぶ権利はなかった。 一方的に悪役を押し付けられた男が、不在の正義に対して異議申し立てを行っている。 まるで、理不尽な本社の方針に対して、現場で孤軍奮闘する支店長の愚痴のようだ。 この人間臭さこそが、サム・ニール版ダミアンの真骨頂だ

撮影とロケーション。英国の冷たい空気感

この映画のもう一つの主役は、ロケーションだ。 グラハム・ベイカー監督は、セット撮影よりもロケーション撮影を重視した。 イギリス各地の歴史的建造物や風景が、映画に重厚なゴシック・ホラーの雰囲気を与えている。 建築好きの俺としては、この点だけは評価してやってもいい。

ハイド・パークとブロケット・ホール

ダミアンが演説を行うハイド・パーク。 そしてダミアンの邸宅として使用されたブロケット・ホール。 英国貴族社会に入り込むアメリカ人実業家という地位を象徴するには、これ以上ない舞台装置だ。 重厚な石造りの建築、手入れされた庭園。 その美しい秩序の中に、悪魔という異物が入り込むコントラスト。 美しい建築には、必ず暗い歴史や秘密が隠されているものだが、この映画はその不気味さをうまく映像化している。

ファウンountains Abbeyの廃墟

クライマックスの舞台となった世界遺産の廃墟、ファウンountains Abbey(ファウンテンズ修道院跡)。 ヨークシャーにあるこの場所は、ベイカー監督が非常に寒く、不気味な場所だったと語っている通り、画面からも冷気が伝わってくるようだ。 崩れ落ちた壁、苔むした石畳。 かつて神の家だった場所が、今は廃墟となっている。 それは神の不在を象徴するメタファーであり、神と悪魔の最後の闘争(という名の茶番劇)が行われる場所として、これ以上の皮肉はない。

キンズリー採石場の悪夢

深夜、ダミアンが信奉者たち(Disciples of the Watch)を集めて演説を行うシーン。 約450人のエキストラを動員し、早朝4時の霧の中で撮影された。 たいまつを持った群衆が、ダミアンの言葉に熱狂する。 これはナチスの党大会や、カルト宗教の集会を想起させる。 全体主義的な恐怖を視覚化した名シーンだ。 人間は、強い言葉とカリスマ性を持つ指導者が現れると、簡単に思考停止して従ってしまう。 その愚かさを、このシーンは冷徹に映し出している。

特殊効果と残酷描写。アナログ時代の職人芸

CG全盛の現在とは異なり、本作の残酷描写はすべて物理的なトリック(プラクティカル・エフェクト)で行われた。 視覚効果担当のイアン・ウィングローブによる工夫は、今見ても色褪せない衝撃を与える。 デジタルデータで作られた血しぶきとは、重みが違うんだよ。

大使の自殺。ピタゴラスイッチの凶行

冒頭の大使自殺シーン。 先ほども触れたが、これは職人芸の極みだ。 精巧なダミーヘッドと圧縮空気を使って脳漿が飛び散る様を描写した。 あまりにリアルすぎて、一部の国ではカットされたらしいが、この痛みが伝わってくる感覚こそがホラーの醍醐味だ。

神父の焼死。プラスチックの地獄

テレビスタジオのインタビュー中、神父が天井から落下し、ケーブルに絡まったままプラスチックシートに引火して焼死するシーン。 スタントマンによる落下と、化学薬品による発火、溶けるプラスチックの質感が組み合わされ、シリーズ屈指の痛々しい死に様となった。 溶けたビニールが肌に張り付く描写。 想像しただけでゾッとするだろう。 CGでは出せない熱と臭いまで感じさせる演出だ。

狐狩りの惨劇。動物タレントの功績

英国の伝統的な狐狩りを舞台に、ダミアンが動物を操って神父たちを返り討ちにするシーン。 馬を暴走させたり、猟犬を操ったりする。 これは巧みな編集と、動物タレントの演技指導によって生み出された。 動物を使うのは難しい。 言うことを聞かないし、タイミングも合わない。 だが、それを完璧にコントロールして不吉な使い魔として演出した手腕は見事だ。 どこかのパグ犬とは大違いだな。

音楽。ジェリー・ゴールドスミスの新たなる挑戦

シリーズの音楽を担当した巨匠ジェリー・ゴールドスミス。 彼はこの映画の真の功労者だ。 第1作でアカデミー賞を受賞した有名なテーマ曲「Ave Satani(アヴェ・サタニ)」の使用を極力控え、代わりにダミアンの孤独と悲劇性を強調する新しいテーマ曲を作曲した。

アンチ・ヒーローの主題歌

この新テーマは、悪魔の恐怖というよりも、運命に抗おうとするアンチ・ヒーローとしてのダミアンを表現している。 勇壮でありながら、どこか悲しげな旋律。 これはダミアンというキャラクターの内面を、セリフ以上に雄弁に語っている。 また、キリストの再臨を告げるシーンでは、美しく神々しい合唱曲The Second Comingが使用され、ダミアンのテーマと対比的な構造になっている。 批評家からは「映画そのものよりも音楽の質が高い」と評されたそうだが、あながち間違いではない。 音楽がなければ、この映画はただのB級サスペンスに成り下がっていただろう。 建築における照明のようなものだ。 構造が多少粗くても、ライティングが良ければ名建築に見えることがある。

公開当時の反響と興行成績。時代の変わり目

1981年3月20日に全米公開された本作の興行収入は、約2047万ドルだった。 第1作が約6000万ドル、第2作が約2650万ドルであったことと比較すると、明らかな右肩下がりだ。 なぜか。 時代が変わったからだ。

スピルバーグとルーカスの影

1981年は『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』や『スーパーマンII』といった、明るく痛快なエンターテインメント大作が市場を席巻した年だ。 観客は、陰鬱な悪魔の悩みよりも、鞭を振るう考古学者や空飛ぶヒーローを求めていた。 70年代の「アメリカン・ニューシネマ」的な暗いリアリズムから、80年代の「ブロックバスター」的な明るいファンタジーへと、映画のトレンドが大きくシフトした瞬間だった。 『オーメン/最後の闘争』は、その時代の波に乗り遅れた、70年代の亡霊のような作品だったと言える。

日本市場での独自の熱狂

一方、日本ではオカルト・ホラーブームが続いており、本作も一定の成功を収めた。 日本での配給収入は約3億円。当時の推定興行収入に換算すると約5〜6億円程度だ。 日本の宣伝ポスターでは、サム・ニールの顔をアップにし、「最後の闘争」という終末感を煽るキャッチコピーが踊った。 1000年紀《ミレニアム》最後の衝撃。 日本人はこういう滅びの美学や世紀末的な不安が好きだからな。 ノストラダムスの大予言とかを信じる国民性が、この映画のトーンと合致したのだろう。

批評と論争。あっけない結末の是非

本作の評価を分けた最大の要因は、その結末にある。 これは弁護のしようがないほど「あっけない」。

ハルマゲドン詐欺

観客の多くは、アンチクライストとキリストによる、文字通り天変地異を伴うような派手な最終戦争(ハルマゲドン)を期待していた。 空が裂け、雷鳴が轟き、天使の軍勢と悪魔の軍勢が激突する。 そんなスペクタクルを期待して金を払った。 しかし、実際のクライマックスは、廃墟となった修道院で、ケイトがダミアンの背中をメギドの短剣で刺すという、物理的かつ静かなものだった。 刺されたダミアンがキリストの幻影に向かってお前の勝ちだ…何もないと言い残して絶命する。 神学的・哲学的には深い意味を持つかもしれんが、ホラー映画としてのカタルシスを求める層には肩透かし以外の何物でもない。 金返せと言いたくなる気持ちもわかる。

幼児虐殺の倫理的問題

また、劇中でダミアンが3月24日生まれの男児をすべて殺せと命じる展開も物議を醸した。 これは聖書のヘロデ王の幼児虐殺を模したものだが、ベビーベッドの幼児が殺害されることを示唆する描写は、当時の観客に強い不快感と倫理的な嫌悪感を与えた。 いくら悪魔でも、やっていいことと悪いことがある。 この陰惨さが、娯楽映画としての受容を難しくした一因だ。 現代ならコンプライアンス的にアウトだろうな。

結論。愛すべき欠陥建築

『オーメン/最後の闘争』は、興行的にはシリーズのピークを超えることはできなかった。 脚本の綻びや地味な結末といった欠点も多い。 構造計算書を見れば赤点だらけの欠陥建築だ。

しかし、俺はこの映画を嫌いになれない。 サム・ニールの名演、ジェリー・ゴールドスミスの荘厳すぎる音楽、そして英国の寒々しい風景。 これらが醸し出す独特の侘しさと孤独は、他のハリウッド大作にはないものだ。 悪とは何か。権力とは何か。 そして、神の不在という絶望の中で、いかにして生きるか。 そんな問いを、不器用ながらも投げかけてくる。

もし未見であれば、若き日のサム・ニールが体現した孤独な悪魔の姿を、ぜひその目で確かめてみるといい。 完璧な優等生よりも、少し歪んだ問題児の方が記憶に残ることもある。 人間も映画も、欠陥があるからこそ愛おしいのかもしれん。

この記事を書いた人

「ホラー映画とは、設計ミスをした人間に下される鉄槌である」が持論の偏屈建築家。 お化け屋敷の動線からゾンビパンデミックの拡散シミュレーションまで、映画の中の「恐怖」ではなく「構造」を評価する。 ジャンプスケア(驚かし)には眉ひとつ動かさないが、非論理的な行動で事態を悪化させる登場人物には容赦なくダメ出しをする。 「一人で観る」のが基本スタイル。絶叫は騒音。以上。

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