やれやれ。今日もまた、他人の作った建物の粗探しをしろというわけだ。チェーンソーを右腕に縫い付けた男が中世で骸骨相手に大立ち回りを演じる、あの悪趣味極まりない映画の話だ。付き合ってやる。
1976年から続く死霊のはらわたシリーズの三作目、日本では『キャプテン・スーパーマーケット』などという投げやりな邦題で公開された代物だが、恐怖という基礎工事を放棄し、冒険という名の増築に走った欠陥建築だと結論しておく。設計変更を隠さなかった点だけは褒めてやらんこともないが、施主の一部が今も怒り狂っているのは当然だ。要するに、それは中途半端なリフォームのシステムエラーだ。
公開年でモメる奴はそもそも建築の初歩がなっていない
1992年の映画か1993年の映画かで揉めている連中を見ると、正直バカかお前はと言いたくなる。竣工年と引き渡し年がズレるのは常識だ。英国映画協会は1992年登録、シッチェス映画祭にも1992年の出品記録がある。一方、米国の一般公開は1993年2月19日。どちらも正しいに決まっている。それを二択問題だと思い込んでいる時点で、お前の頭の中の間取り図がおかしい。
日本公開はさらに半年遅れ
日本公開に至っては1993年6月26日、配給は東宝東和。輸入建材が税関で半年も足止めを食らったようなものだ。ほっといてくれと言いたいのはこっちの方だ。
世界初上映日の話。ここまで来ると神経質すぎる
世界初上映は1992年10月9日とよく書かれているが、映画祭の公式ページには上映日そのものは載っていない。スペイン紙が同月10日付でシッチェスでの世界初上映を報じているから、10月という月については裏が取れる。だが9日という日付そのものは、米国公開日ほど強固には検証できない。この程度の誤差にいちいち目くじらを立てる方が、俺に言わせれば野暮というものだ。
「Medieval Dead」から改題。看板建築の恥知らずな見本
企画時の仮題はMedieval Dead。それをスタジオがArmy of Darkness無理やり変えさせた。中身は一切変えず、看板だけ張り替えて売りやすくしたわけだ。よけいなお世話だと言いたいところだが、映画業界も建築業界も、結局は見た目で客を釣る商売だという点では同類だ。
俺の失敗談。和モダン風だけの看板住宅
俺にも覚えがある。施主の思いつきで外観だけ和モダン風に変えろと言われ、間取りは一切いじらせてもらえなかった案件だ。竣工後、施主は満足げに写真を撮っていたが、俺はあれを詐欺に片足突っ込んだ仕事だと今でも思っている。看板の張り替えそのものは否定しないが、それを作家性の勝利だの商業主義への屈服だのと大げさに語る評論家気取りは、揃いも揃って現場を知らない素人だ。
訴訟にまで巻き込まれた公開スケジュール
1992年、ディノ・デ・ラウレンティスとユニバーサルが別の映画の権利をめぐって訴訟をやり合い、その和解のとばっちりでこの映画の配給権が動いた。デ・ラウレンティス側は資金支払いの留保を主張し、ユニバーサル側は納品期限違反を主張していたという。施主同士の相続争いに巻き込まれて着工が半年延びた現場と、まったく同じ構造だ。誰が悪いという話ですらない。他人の金の揉め事に振り回されるのが、この業界の通常営業だというだけの話だ。
特殊効果は職人の意地。CG信者は黙って見てろ
骸骨の腕が主人公の口に飛び込むシーン。担当者は空洞のラテックス製の腕を丸めて口に収め、空気を送りながら引き出す動きを撮り、それを逆再生することで実現したと証言している。CG以前だから稚拙だ!!などと侮る奴は、正直、映画を見る資格すらない。無秩序に見える画面の裏には寸分違わぬ採寸と段取りがある。表からは見えない配筋の精度が建物の寿命を決めるのと、まったく同じ理屈だ。
『ジュラシック・パーク』という隣の豪邸との比較
同じ1993年には『ジュラシック・パーク』が公開され、実物造形とコンピューター生成の恐竜を組み合わせて時代を塗り替えた。その隣で本作は、模型と投影合成とアニメーションと実物の仕掛けを泥臭く組み合わせて骸骨の軍団を作っていたわけだ。片や最新工法、片や職人技の力技。どちらが偉いという話ではない。ただ、力技には力技なりの説得力があるというだけのことだ。もっとも、批評家ベラーディネリが指摘した通り、人物の大小を合わせた合成には粗さも残る。褒めるところは褒め、粗いところは粗いと切り捨てる。それだけのことだが、この単純な作業ができない評論家がやたら多いから困る。
俺の失敗談。ステーキと生焼けの教訓
ステーキを一人で焼くとき、俺は常温に戻す時間まで計算に入れる。ある日、来客予定が急に早まり、冷蔵庫から出したての肉を焼く羽目になった。表面は完璧に焼き上がって見えたが、中心は無残な生焼けだった。見た目の完成度と内部の仕上がりは別物だということを、あの日の恥ずかしい食卓で思い知らされた。この映画の特殊効果も同じだ。表面のインパクトだけを見て粗雑だ!だの革命的だ!だのとはしゃぐ連中は、中心温度を測る手間すら惜しんだ、生焼けの感想文を垂れ流しているに過ぎない。
結末が二つある。施主の気まぐれに振り回された典型例
米国劇場版はSマートに帰還して勝利のポーズを決める。もう一つの結末では薬の量を間違えて未来まで寝過ごす。主演のブルース・キャンベルは後者を支持している。うっかり者の性格に一貫性があるからだそうだが、要するにそれは正しい。
引き渡し用の愛想笑いと、原設計のこだわり
俺の見立てはこうだ。前者は施主の顔色をうかがって作った引き渡し用の愛想笑い。後者は設計者の意地が最後まで残った原設計だ。施主の意向で結末をすり替える行為自体は、玄関の向きを風水の都合で変えられるのと同レベルの、よくある屈辱に過ぎない。それを魂を売った、などと悲劇的に語る奴の方が、俺には滑稽に見える。
興行収入の数字がバラバラなのは、隠す気がないだけマシだ
製作費は1,100万ドル、1,200万ドル、1,270万ドルと資料によってバラバラ。世界興収もある資料では約2,150万ドル、別の資料では約1,150万ドルと大きく食い違う。北米興収は11,502,976ドル、初週末は1,387館で4,424,535ドル。これは複数のデータベースで一致している。
見積書と精算書を混同する素人が多すぎる
これのどれが本当だと犯人探しをする奴は、見積書と実行予算書と最終精算書の違いも知らない現場素人だ。数字が割れているという事実を、隠さずそのまま並べておく。それが唯一の誠実さだ。見栄えのいい一つの数字にまとめようとする方が、よほど信用ならない。
- 米国一般公開:1993年2月19日(複数資料で一致)
- 日本初公開:1993年6月26日(国内二資料で一致)
- 北米興収:11,502,976ドル(二大データベースで一致)
- 世界興収:約2,150万ドル前後(資料により不一致あり)
脇を固める連中の話もしておいてやる
ヒロインのシーラを演じたエンベス・デイヴィッツは、後に『シンドラーのリスト』で名を上げる俳優だが、本作をその前座扱いするのは失礼というものだ。奔放な主人公の隣で、感情の受け皿になる仕事は、派手さこそないが誰にでもできるものではない。
真面目な脇役があってこその軽薄さ
アーサーやヘンリー公、賢者といった脇役たちが真面目な顔で物語を進めるのも重要な仕事だ。全員が主人公と同じ調子でふざければ、中世に迷い込んだ違和感そのものが消えてしまう。周りが真剣であるほど、主人公の軽薄さが際立つ。これは配役の妙であって、台詞の量では測れない貢献だ。音楽はジョゼフ・ロドゥカ、テーマ曲はダニー・エルフマンが担当したというが、こういう裏方の仕事に無頓着な観客が多すぎるのも、俺には不満だ。
批評が割れるのは欠陥ではない。お前らの求めるものが違うだけだ
公開当時、前作より笑いに反復感があると評した批評家もいれば、ホラーと剣戟と三ばか大将風の笑いの混淆を楽しんだ批評家もいる。批評家支持率と観客支持率も大きく乖離しており、ここでも見事に割れている。
それでもホラー映画賞は獲っている
割れて当然だ。恐怖という基礎の上に冒険という増築を継ぎ足したのだから、恐怖目当てで来た客が話が違う、と怒鳴り込むのは当たり前だし、増築部分を楽しみに来た客は満足して帰る。どちらが正しいかを決めようとする方が、そもそも間違った問いの立て方だ。ジャンル映画の賞では堂々とホラー映画賞を獲っているのだから、少なくとも同業者からは認められていたという事実だけは付け加えておく。
版が四つもある。落ち着きのない建物だ
この映画は劇場版、ディレクターズ・カット、国際版、テレビ版と、上映時間の異なる版が複数存在する。増改築を繰り返した挙句、最終的に何階建てなのか施主本人も把握していない住宅のようなものだ。だが一度観て終わる映画なら、版の違いを比較する商品など誰も買わない。何度も観返され、版ごとの違いまで楽しまれているという事実こそが、この建物の妙な生命力を証明している。
総評
この映画は、恐怖という基礎の上に冒険と笑いという増築を無理やり継ぎ足した建物だ。継ぎ目は正直かなり粗い。予算も興収も数字が定まらず、結末すら二種類あるという、施工図としては失格の代物だ。
それでも、この継ぎ目の粗さを堂々とさらけ出す図太さだけは認めてやる。完璧な設計図など、最初からこの世に存在しない。施主の都合、会社の都合、訴訟の都合で歪められながらも、アッシュという男の間抜けさだけは最後まで一貫していた。それだけで、この建物はギリギリ及第点だ。ただし、褒めているわけではない。単なる事実の指摘だ。
関連する現場も見ておけ
この欠陥建築がどんな基礎の上に建っているか気になる奴は、前二作も見ておくといい。