死霊のはらわたII制約が生んだ伝説の一夜

やれやれ。今度は『死霊のはらわたII』だそうだ。中世編を撮る金がない、前作の映像も使えない、審査も通らない、三重苦を抱えた続編が、なぜか40年近く語り継がれている。要するに、それはシステムのエラーだ。不自由こそが最良の設計図になるという、俺が現場で何度も味わってきた皮肉と同じものが、ここにも転がっているわけだが。

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予算がなかったから、あの形になった

「山小屋から出したかった」共同脚本家の告白

本当は中世へ飛ばす壮大な話を撮りたかった。だが金がなく、橋を崩落させる大規模なアクションも「馬鹿げているほど金がかかる」という理由で断念された。共同脚本のスコット・スピーゲルは後年、外に物語を広げる案をいくつも出したが「どれも自分たちの予算には高すぎた」と振り返っているという。

俺にも覚えがある。理想の設計図を描いても、施主の懐具合という現実に叩き落とされる瞬間がな。以前、伝統的な木組みの大屋根を提案した仕事があったが、予算の壁でシンプルな片流れ屋根に変えざるを得なかった。悔しかったが、結果として光の入り方は前案より良くなった。狭さは時に才能を上回る。制約を呪う者は多いが、制約を武器に変える者だけが生き残る。ライミたちがやったのはまさにそれだ。広い世界を描けないなら、狭い山小屋の中で最大限の狂気を詰め込む、この発想の転換こそが、超高速の移動撮影、部屋中の家具が笑い出す演出、アッシュが自分の右手と格闘するスラップスティックといった、本作を特徴づける演出言語の出発点になっている。

35mmへの移行と特殊効果チーム

16mmで撮影された第1作に対し、『II』は35mmで撮影されている。撮影監督は後に『マルホランド・ドライブ』を手がけるピーター・デミング、特殊メイクの中心はマーク・ショストロム。その下にはロバート・カーツマン、グレッグ・ニコテロ、ハワード・バーガーといった、後年のハリウッド特殊メイクを支えることになる面々が名を連ねていたという。

要するに、この現場は単なる安普請ではなく、後年の巨匠たちの見習い期間だったわけだ。人材というのは、こういう泥臭い現場でこそ育つ。エアコンの効いた設計事務所で育つ才能など、たかが知れている。CG以前の時代、メイク・機械仕掛け・ミニチュア・マット画・ストップモーションを分業で積み上げた体制は、単なる低予算ホラーの寄せ集めではなく、後のジャンル映画を支える人材が交差する現場だったと言えるだろう。

ミシガン時代からの仲間たちが作った映画

ライミ、プロデューサーのロバート・タパート、主演のブルース・キャンベルは、ミシガン時代からSuper 8の自主映画を一緒に作ってきた仲間だ。共同脚本のスコット・スピーゲルも中学時代からキャンベルを知る間柄で、彼らは若い頃から『三ばか大将』的なスラップスティックを繰り返し実験していたという。

つまり『II』で炸裂する身体ギャグは、十代の頃からの遊びを大予算で再現したようなものであり、突飛な思いつきではなく蓄積の結果だったと見るほうが正確だ。長年連れ添った仲間との悪ふざけが、思わぬところで仕事の武器になる。これは結婚という制度には決して真似できない資産の作り方だ。他人と生活を共にする契約書に判を押さずとも、志を同じくする仲間となら、こういう蓄積は可能なのだよ。

資金繰りも一筋縄ではいかなかった

企画の成立過程も平坦ではなかった。第1作がカルト的成功を収めたことを受け、ライミとタパートは1985年から続編の資金調達に動き出す。当初はエンバシー・ホーム・エンターテインメントが全額出資・配給する形でまとまりかけたが、同社が劇場配給部門を売却したことで計画は宙に浮き、最終的にディノ・デ・ラウレンティス系列のDEGが引き継ぐことになった。実際の主要撮影が始まったのは1986年5月19日、ノースカロライナ州ウェイズボロでのこと。撮影は同年8月まで続き、ストップモーションや第二班撮影の一部はデトロイトへ持ち帰られている。

出資元が一度宙に浮いたという経緯を踏まえると、製作費が資料によって350万〜500万ドルとばらつく問題にも納得がいく部分がある。金の流れが濁っている現場ほど、後になって数字が合わなくなる。これは映画に限った話ではない。

冒頭は「リメイク」ではなく「権利問題の産物」

本作の冒頭で第1作とほぼ同じ展開が繰り返されることに違和感を覚えた者もいるだろう。長年「これはリメイクなのか続編なのか」という議論がファンの間で続いてきたという。

答えは制作側の証言で明確になっている。主演のブルース・キャンベルいわく「自分たちは自分たちの映画の権利を持っていなかった」。つまり第1作の映像素材をそのまま使う権利がなく、やむを得ずアッシュとリンダの物語だけを再構成して撮り直したのだ。要するに、それはシステムのエラーだ!創作者が自分の作品の所有権すら持てないという、業界の構造的な欠陥である。だからこれは「リメイク」ではなく、権利上の制約から生まれた「前作の要約パート」であり、本編は紛れもなく続編として設計されている。

ただし、前作に相当する部分の設定そのものが変更されていることから、日本語圏では「実質的にはリメイクに近い」と評されることも少なくないという。制作側の意図と観客側の受け取り方は、最初から別々の問いに対する答えなのだ。どちらが正しいかを競う必要などない。なぜ食い違うのかを見ればいいだけの話だ。ちなみに現存する1986年5月付の脚本第7稿には、ネクロノミコンの由来をストップモーションや絵画で見せる細かいプロローグ指定が残されているというから、完成版よりもさらに手の込んだ導入が検討されていたことがうかがえる。

興行成績は「大ヒット」ではなかった

同年のホラー映画と比べてみる

1987年3月13日、本作は310館という控えめな規模で公開された。初週末の興行収入は約80万7000ドル、1館平均は約2600ドルほど。業界誌はこのスタートを「slow」と評したという。最終的な北米累計興収は約592万ドルにとどまった。

同じ年に公開されたホラー映画と比べると差は歴然としている。『エルム街の悪夢3』は4479万ドル、『ロストボーイ』は3285万ドル、『ヘル・レイザー』でさえ1456万ドルを稼いでいる。『死霊のはらわたII』はその中で明らかに小粒な存在であり、年間ランキングでも100位台の後半に沈んでいるという。今日「ホラー史の傑作」として語られる評価は、興行収入からではなく、その後数十年をかけてじわじわと積み上がったものだ。

製作費はいくらだったのか?資料が一致しない理由

製作費についても資料によって数字が一致していない。ある興行データベースは350万ドルとし、2013年のハリウッド・レポーター誌の関係者による回顧記事は約400万ドルとし、AFIが引用する1986年当時の業界報道は約500万ドルとしているという。製作予算、実際にかかった最終コスト、会計上の「negative cost」といった異なる概念が資料ごとに混同されている可能性はあるが、公開資料だけでは差額の理由を特定できない。

俺はこの手の「決算報告書のような曖昧さ」を嫌うが、無理に一つの数字に決めつけるよりは、幅を持たせたまま提示するほうが誠実だ。分からないことを分かったふりで押し通す記事のほうが、よほど質が悪い。

MPAAを迂回した「無指定」公開という賭け

当時の配給を語るうえで欠かせないのがレーティング問題だ。製作側と配給元のDEGは、完成した84分版をそのままMPAAに提出すればX指定になると予測していた。しかしR指定を得るためにどこをカットするかで折り合いがつかず、最終的にMPAAの審査自体を回避するという選択をとった。

作品はRosebud Releasing Corporationという配給会社を通じ、アメリカでは「無指定」として公開された。館数を犠牲にしてでも作品を削らずに保つという判断だ。イギリスではBBFCが1987年5月に18指定を与えると同時に、一部シーンのカットを条件としている。同じ作品でも国によって審査の通し方がまったく違ったわけだ。制度というのは所詮、その土地のローカルルールにすぎないということだ。

日本公開をめぐる「わからないこと」

ここは正直に書いておきたい。日本での興行収入や配給収入、公開時の順位について、信頼できる一次資料から正確な数字を確認することができなかったという。映画製作者連盟がまとめた1987年の外国映画配給収入ランキングには『トップガン』や『プラトーン』などは載っているが、本作の名前は出てこない。掲載の閾値が明示されているわけではないため、逆算もできない。

さらに公開日についても資料によって食い違いがあり、10月3日とする情報源と、11月21日とする情報源の両方が存在するという。どちらが正しいかを断定できる材料は見つかっていない。

ここは正直に評価したい。分からないことを分からないと書く姿勢は、俺の設計思想にも通じるものがある。強度計算が甘い箇所を「大丈夫です」と誤魔化す施工業者を、俺は許さない。空白は空白のまま提示するのが誠実というものだ。数字がないところに無理に数字を当てはめるより、「わからない」と書くほうがよほど信頼できる。

公開当時から評価されていた、という誤解されがちな事実

イーバートは公開直後から高評価だった

「カルト映画は公開当時に酷評され、後から再評価される」というのはよくある物語だが、この映画に関しては必ずしも正確ではない。ロジャー・イーバートは公開直後、本作に4点満点中3点をつけ、「血まみれのショック映画に扮したコメディ」と評しているという。ニューヨーク・タイムズも当時からライミの技巧と成長を評価する記事を出しており、Variety誌のレビューも本作を単なる恐怖映画ではなく「不条理コメディ」として捉えていたそうだ。

つまり公開当初から、この映画が単なる残酷描写ではなく高度に計算されたコメディであることを見抜いていた批評家は存在した。後年になって変わったのは「評価されたかどうか」ではなく、その評価がホラー映画史全体における位置づけへと広がっていったことだ。

学術研究の対象としての『II』

大きな主要映画賞との縁は薄かったものの、サターン賞では作品賞(ホラー部門)、特殊効果部門、メイク部門でノミネートの記録が複数のデータベースに残っており、ファンタスポルトでもライミ自身が監督賞候補に挙がった記録があるという。

現在のRotten Tomatoesでは批評家スコア88%、観客スコア89%と、今も高い支持を集め続けている。近年では大学の学術誌でも取り上げられ、2023年にはパデュー大学の研究誌で「笑いと狂気」という切り口から論じられ、2024年にはネブラスカ大学オマハ校の研究誌が「身体性ホラー」という角度から旧約聖書との比較まで行っているという。B級映画が学術論文の題材になる。これもまた、皮肉というより痛快な話だ。

40年近く経っても「参照される映画」であり続けている

アッシュはいつスターになったのか

キャンベル演じるアッシュは、シリーズを重ねるごとにキャラクター像が変化していく。第1作では悪霊に追われるだけの被害者的な青年だったが、『II』の終盤でチェーンソーを自らの右手に装着し、猟銃を構えるショットに至って、初めて「戦う主人公」としてのアイコンが完成する。この造形がそのまま『Army of Darkness』へ、さらに約30年後の連続ドラマ『Ash vs Evil Dead』へと引き継がれていくという。

主演のブルース・キャンベル自身、公開当時は今日のようなスターではなく、本人の回想によれば『II』出演後にも夜間警備の仕事をしていた時期があったというから驚きだ。そこから約30年後に自ら再びアッシュを演じる連続ドラマの主演を務めることになるのだから、キャリアとは分からないものだと言うほかない。キャラクターというのは一夜にして生まれるのではなく、こうして一場面ずつ積み上げられて完成するものなのだ。

ホラーコメディというジャンルの中での立ち位置

では『II』の独自性はどこにあるのか

「恐怖と笑いを同居させたホラー映画」の発明者だと持ち上げる声もあるが、それは言い過ぎだ。実際には『II』の前年、スチュアート・ゴードン監督の『Re-Animator』がすでにゴア表現とブラックユーモアを融合させた作品として評価を得ていたという。つまりゴアとコメディを組み合わせるという発想自体は、当時のインディペンデント・ホラー・シーンの中で同時多発的に生まれていたと見るべきだろう。

それでも『死霊のはらわたII』が特別視される理由は、恐怖とコメディを「交互に」描くのではなく、「同じ一撃」の中に両方を同居させた点にある。アッシュが自分の手を切り落とす場面は、恐怖描写であると同時にスラップスティックでもある。カメラそのものが悪霊のように高速で襲いかかってくる主観ショットは、観客を怖がらせる技法でありながら、あまりの過剰さゆえに笑いを誘う。恐怖が先に来て、その後で笑いが来るのではなく、恐怖そのものの中に可笑しさが埋め込まれている。この一体化した構造こそが、『II』を単なる「ホラーとコメディの合体」以上の存在にしている。

スピーゲル自身も後年、この作品を振り返って「crazy, horrific, off-kilter」なアトラクションのようなものであり、「自分たち自身のジャンルを作った」という趣旨の発言を残しているという。これは本人の自己評価であって客観的な事実ではないが、少なくとも制作陣が「何か新しいことをやっている」という自覚を持って作っていたことは、この証言からうかがえる。

総評

この映画の面白さは、潤沢な予算で作られた完璧なホラーだからではない。むしろ逆だ。中世編を撮る金がない。前作の映像素材も使えない。X指定を避けるためにMPAAの審査すら通せない。そうした制約の一つひとつが、山小屋という狭い空間への集中、家中の物が笑い出す過剰な演出、無指定という異例の配給方法、そして恐怖を笑いへ反転させる独特のトーンを生み出した。

俺は常々言っている。制約のない設計は退屈だと。潤沢な予算と自由な条件で作られたものほど、個性を失って凡庸になる。皮肉なことに、この映画はその法則を見事に証明してみせた。興行的には決して大ヒットではなかったこの映画が、40年近く経った今も語り継がれ、研究され、現役の監督に参照され続けている事実がそれを裏付けている。

結婚も同じだ。自由を制約されるからこそ、そこに何かが生まれると信じる者もいるらしいが、俺はごめんだ。ただしこの映画に限っては、認めてやろう。狭い山小屋の中で、限られた予算からどれだけの狂気を引き出せるか、それこそが、この映画が今も語られ続けている理由なわけだが。分からないことを分からないまま提示する誠実さもまた、この映画を語るうえで見習うべき態度だと言っておく。やれやれ。

関連する現場も見ておけ

この一夜の前と後、どちらも建築的に興味深い現場だ。ついでに見ておけ。

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この記事を書いた人

「ホラー映画とは、設計ミスをした人間に下される鉄槌である」が持論の偏屈建築家。 お化け屋敷の動線からゾンビパンデミックの拡散シミュレーションまで、映画の中の「恐怖」ではなく「構造」を評価する。 ジャンプスケア(驚かし)には眉ひとつ動かさないが、非論理的な行動で事態を悪化させる登場人物には容赦なくダメ出しをする。 「一人で観る」のが基本スタイル。絶叫は騒音。以上。

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