やれやれ。今日の獲物は『死霊のはらわた』だそうだ。製作費35万ドル、監督は撮影直前に二十歳になったばかりの若造、主演は素人同然の友人。
普通ならそれは杜撰な設計図だ。だが、この映画は史上最高のホラー映画の一本と呼ばれるまでになった。要するに、それはシステムのエラーだ、金がある奴が勝つという業界の常識に対するバグだったわけだが。見出しが足りんと言われたので、今回は骨組みをきっちり組み直してやる。
資金集めという名の「基礎工事」
幼馴染二人が10万ドルをかき集めるまで
幼馴染二人が家族や知人を回って10万ドルをかき集めた、と聞いて俺は正直、笑ってしまったわけだが。建築で言えば、地盤調査もせずに友人から材料をかき集めて家を建てるようなものだ。普通は崩れる。だがなぜか崩れなかった。
理由は単純だ。彼らは最初から完璧な家を建てようとしていなかった。短編『ウィズイン・ザ・ウッズ』という名の模型を先に作り、それを見せて出資者を口説いた。要するに、大きな嘘をつく前に小さな真実を見せたわけだ。俺が建築で施主を説得するときと同じ理屈だ。
13人が一つ屋根の下で過ごした極寒の日々
配管もない小屋に13人が押し込まれ、終盤には家具を燃やして暖を取った、というくだりを読んで、俺は素直にやれやれと呟いた。共同生活というのは結婚と同じで、快適さを捨てた者から先に壊れていく。
意見の衝突も日常茶飯事だったというが、当然だ。他人と同じ屋根の下で眠るというのは、ペースを乱される苦痛以外の何物でもない。それでも仕上げたのだから、動機の強さだけは認めてやる。
ステディカムが買えなかったから生まれたシェイキーカム
面白いのはステディカムが買えなかったから、木材にカメラをくくりつけて二人で走ったシェイキーカムが生まれたという話だ。金がないから生まれた欠陥が、後にこの映画のトレードマークになった。
皮肉屋の俺から言わせれば、これはまさに制約の美学だ。建築でも予算がないときほど、施主は妙に独創的な発想をする。人間、追い詰められないと本気を出さない生き物なのだよ。終盤で悪霊の手が主人公を掴む場面、あれが監督自身の手だったという逸話も、同じ理屈から生まれている。人手が足りなければ、自分の手を出す。それだけの話だ。
配給拒否という門前払い、そしてカンヌの権威
不幸にも引き受けてくれる会社が一つもないという現実
完成させても、アメリカの配給会社は軒並みこの映画を門前払いにした。あまりに過激な暴力描写のせいだという。権利を取ったのはヨーロッパの会社だった、というのがまたいかにもだ。要するに、本国の審査システムそのものがエラーを起こしていたわけだ。
巨匠スティーヴン・キングという権威の後押し
転機はカンヌでのコンペ外上映。そこに居合わせた巨匠スティーヴン・キングが今年最も獰猛なまでにオリジナルな作品と評したことで、無視されていた映画が一気に日の目を見た。
これは俺が最も嫌いな現象でもある。作品の価値は本来、作品そのものにあるはずだ。だが現実には誰が褒めたかで価値が決まる。よけいなお世話だと言いたいところだが、これが世の中というシステムの仕様なのだから仕方ない。
興行成績の謎、270万ドルから2940万ドルという大きな幅
初動10万ドル、最終240万ドル
初動は15館、初週10万8000ドルという地味なスタートだったが、口コミで最終的に北米だけで240万ドルまで伸びた。製作費の8倍だ。悪くない利回りだな。
資料によって数字が食い違う非公式な出自
だが全世界興収になると資料によって270万ドルから2940万ドルまで数字が割れるという。これは正直、笑うしかない。要するに、この映画には最初から正式な帳簿など存在しなかったのだ。監督自身が後年、投資家には出資額の5倍のリターンがあったと語っているらしいが、こういう曖昧さこそが、非公式に生まれたものの宿命だとも言える。
本当の勝負はビデオ市場だった
ホームビデオ市場では『シャイニング』を上回る年間最高売上を記録したというのだから、劇場という正面玄関ではなく、ビデオという勝手口から成功が入ってきたわけだ。表玄関で門前払いを食らった者が、裏口から堂々と入り込む。皮肉な話だが、個人的に嫌いではない。
イギリスのビデオ・ナスティ騒動!弾圧が皮肉にも最大の広告になった
メアリー・ホワイトハウスという敵対者
保守活動家メアリー・ホワイトハウスがこの映画をビデオ・ナスティの代表格として糾弾し、猥褻法での起訴まで持ち出した。合計49秒、後にさらに1分6秒がカットされ、無修正版が認可されたのは2000年になってからだったという。
「見るな」と言われて見ない人間などいない
俺はここに、皮肉な真理を見る。禁止するという行為は、宣伝という行為とほぼ同義になる場合がある、ということだ。ナンバーワン・ナスティという不名誉な称号は、結果的にこの映画の最大の広告塔になった。
人間の好奇心という生き物は、扉を閉められるほど、扉の向こうを覗きたくなる。これはもう、動物の習性に近い。犬にお手を禁止すればするほど、犬は手を出したくなるものなのだよ。
批評とフランチャイズ、アッシュという文化的アイコンの誕生
称賛と悪名を同時に背負った映画
この映画一本から、ライミ、タパート、キャンベルという三人のキャリアが始まった。公開当初から技術的完成度の高さは驚きをもって迎えられ、今では最も重要なカルト映画の一つとされている。同時に悪名高いスプラッター映画としても語られる。両極端を同時に背負う、これもまた、この映画らしい在り方だ。
ゲーム、コミック、ミュージカルへの節操なき拡散
アッシュ・ウィリアムズは文化的アイコンとなり、ゲーム、コミック、ミュージカルへと広がっていった。バラク・オバマを守るコミックまで作られたというのだから、もはや節操という概念が存在しない。
だが俺はこれを悪く言うつもりはない。建築で言えば、増改築を繰り返した末に元の設計思想が見えなくなった建物のようなものだ。醜いと言う者もいるだろうが、それだけ長く使われ、愛され続けている証拠でもある。
日本での受容、天才的な邦題と露悪の古臭さ
1985年、日本ヘラルドが配給した邦題のセンス
日本公開は1985年、日本ヘラルドの配給だ。死霊のはらわた、という邦題のセンスは今も語り草になっているらしいが、俺に言わせれば、これは翻訳ではなく再設計だ。原題を直訳せず、日本の観客の恐怖の感覚に合わせて建て直した。優れた仕事だと認めよう。
賛否が分かれる日本のレビュー
一方で、40年経った今見返すと露悪の新味が古臭くなっていた、という率直な声もあるという。これは正直な意見だ。どんな名建築も、時代の空気の中でしか輝かない部分がある。古臭さを認めた上でなお語り継がれているという事実こそが、この映画の底力なのだろう。
作品のテーマ・森の奥のロッジという原型
閉鎖環境という基本設計
人里から隔絶された小屋という舞台設定は、今でこそ使い古されたホラーの定番だが、その原型を作ったのはこの映画だ。通信手段の断絶、逃げ道の消失。閉鎖環境という条件設定は、まさに設計図の基本形と言っていい。皮肉なことに、撮影現場そのものが電話線一本だけの孤立した小屋だったというのだから、フィクションと現実の境界が曖昧になっている。
恐怖とブラックユーモアの同居
恐怖とブラックユーモアが同居している点も見逃せない。過剰なまでのグロテスクさが、かえって笑いに転じる瞬間がある。これは俺が金魚を眺めながら感じる感覚に近い。あまりに単純な生き物の動きを見つめ続けると、ふと可笑しくなる瞬間がある。恐怖と滑稽は、思っているよりずっと近い場所にあるのだ。
総評
この映画の成功譚を俺なりに要約すれば、こうなる。金がないから生まれた欠陥が武器になり、権威に褒められたから注目され、弾圧されたからさらに広まった。すべてが正反対の力によって同時に押し上げられた、極めて稀な建築物だ。
正直なところ、俺はこの手の奇跡の成功譚を無条件に美化する記事が嫌いだ。運の要素があまりに大きすぎる。だが、この映画に関しては認めざるを得ない。制約こそが発想の母だという事実を、これほど分かりやすく証明した例は少ない。
結婚なんてものは人生の墓場だと俺は常々言っているが、この映画に関して言えば、極限の共同生活と予算の欠乏という墓場のような制約が、逆に伝説を生んだ。皮肉なものだな。ほっといてくれと言いたい気持ちも分かるが、この矛盾こそが面白い、ということだけは認めてやろう。
関連する現場も見ておけ
低予算のあばら家から始まった話だ。その後どう増築されていったか、続きも見ておいて損はない。